第4話 大きなカバンには理由がある(2003.8.19)
私には同僚から良く受ける質問があります。通路やエレベーターホールなどですれ違う際に、彼らは私の持つカバンをみながらこう問うのです。「出張だったんですか?」
私の持ち歩いているカバンは、A4ファイルサイズのノートパソコンを収納し持ち運べるサイズのもので、外観はB4サイズ程度、厚みが15cmほどあります。もともと大きめのカバンが、しかもパンパンになっているためにかなり大きく見えるのでしょう。また、がんらい出張の多い職場なので、とりあえずのあいさつとして「出張だったんですか?」が無難なものであることも確かです。
10年以上も前のことで既に出所は忘れてしまいましたが、「カバンの大きさはその持ち主の不安の大きさに比例している」という説をきいたことがあります。
私のカバンにはパソコンを衝撃から保護するためのインナーがついているので、見た目ほど大きな容量はないのですが、それでもいろいろと詰め込んでいるのは確かで、そのほとんどが「おそらくは不要だけど、もしかしたら必要になるかもしれないもの」で占められています。たとえば、持ち歩いているZaurusの充電用ACアダプタやノートパソコンの予備バッテリ、あるいは携帯電話をつなぐためのUSBケーブルなどです。外出先で予備バッテリが必要になったことはほとんどありませんし、PHS通信カードが使えない状況で携帯電話を使いリモートアクセスする必要に迫られたこともなく、いわばいざというときの備えとはいえ、必要度は極めて小さなものたちといえます。
他にも呆れられることが多いのは本の数です。出張となれば往復で5〜6時間の移動時間がありますから1冊で不足なのは明白で、だいたい3冊と、読み始めた本がつまらなかった時の予備にさらに1冊、あるいは雑誌を1冊といった具合に4冊は持って行きます。当然出張先で10分ほどの空き時間があれば書店に飛び込み物色を始めるほうなので、帰路にはこれが5〜6冊に増えます。こうなると、本を運搬しているだけという気さえしてきます。往復の乗車時間が40分ほどの通勤でさえ、最低2冊はないと不安で、外出の時間が近づいているのに読むべき本が決まらない時など、私の焦りは頂点に達します。
だからといって私が、細心の注意を払って荷造りをしているわけではありません。むしろ、小中学校時代に私は年から年中忘れ物ばかりしていました。今でも、たまにカバンを変えると大量の忘れ物に悩まされます。
そんな私が衝撃を受けたのが、就職したころの愛読雑誌「ビーツールマガジン」にたびたび登場していたノンフィクション作家、山根一眞氏のカバンでした。
ワープロや録音機、電子手帳などの小型の情報機器やメモ帳などの文具が、ぎっしりと収納されたカバンは、さながら動く書斎。どんな状況でも取材と原稿作成などの知的生産活動が滞りなく行えそうに思われました。おりしも、パソコンが新たなコミュニケーションと知的生産のツールとして脚光を浴び始めたころです。
とはいえ、文房具はともかく小型情報機器は安いものではなく、当時の私にはなかなか手が出るものではありませんでした。山根氏の戦闘力にあふれたカバンと、自分の情けない装備とを見比べてはため息をつく日々が相当長かったのです。
パソコンなどの機器がどんどんと進歩し価格も下がる一方で、私の収入もそれなりに増えてくると、ようやく念願の動く書斎を手にいれることができるようになりました。私はついに電子書斎カバンを手に入れられるようになったわけです。
動く電子書斎は確かに便利です。
必要な資料やデータはパソコンにありますから、重たい書類を持ち歩く必要もありませんし、それらを常に最新版に保つことも簡単ですし、たとえ5年前の書類であっても検索して取り出すのに数分もかかりません。打合せと同時に修正して配布することもできます。生来の横着者である私は、この環境がなければほとんどまともに仕事をこなすことができないでしょう。
一方で、その気になれば必要な情報に絞り込んで持ち歩くことは不可能ではなく、ACアダプタなどさまざまな周辺機器をあわせると2kg近くにもなるノートパソコンを持ち歩く必要は決して高くないのも事実。私の周囲にはパソコンを持ち歩くことなく仕事をこなしている人がたくさんいます(むしろ、パソコンを常に携帯しないと気が済まない私は少数派です)。
必要になるかもしれない情報をすべて持ち歩くのは、裏を返せば、必要な情報の取捨選択ができないことを意味します。さまざまな周辺機器類についても同じで、状況に応じて必要最小限の装備を選ぶという能力において、私はかなり劣っているらしいのです。現に、旅行のための荷造りでは毎回妻をいらだたせてしまいます。
あることの「起こりうる度合い」と「起こったときの困る度合い」を勘案し、判断をした上で必要なオプションを選ぶのが選択であり、意思決定であるといえますから、私は意思決定の能力に乏しいということになってしまいそうです。
さすがに「意思決定能力に乏しい」で終わってしまってはビジネスマンとしての危機です。もう少し考えてみましょう。
あることが「起こりうる度合い」はいわば問題が発生する可能性を示します。一方で、「起こったときの困る度合い」は発生時の損失の大きさということになります。たとえば、ある商品の故障率が1%で、故障時の修理代金が1万円ならば、両者を掛け合わせて100円分のリスクが存在することになります。このリスクに備えるために、たとえば故障時に無料で修理が受けられる保険に加入するか否かを決めるのが意思決定です。リスクの大きさと、それを回避するためのコストの大きさとを比較するわけです。
保険料が50円ならば迷う必要はありませんが、それはあり得ません(他に損害をカバーするすべがなければ保険会社は必ず損をするからです)。こうした場合の保険料は110円とか120円に設定されるでしょう。なぜなら、保険には単に損害を埋め合わせるというメリットの他に、損害の発生に対する不安要素を取り除けるという大きなメリットがあり、その分の対価が必要になるからです。また、故障によって機械が使えない期間に別のコストが発生するならば、修理中の代替機のレンタルサービスがあるか、といった付加サービスの評価もしなければならないでしょう。意思決定は決して平板なものではありません。
私のカバンが重くなるのは、私が想定するリスクが、重いカバンを持ち歩くというコストよりも高いということに他なりません。ここで重要なのは、必ずしも金額算定のできないリスクについては、意思決定をする人間の経験や性格、リスクを受け入れる余裕度などによって、その大きさが変化するということです。あなたの周囲にも、「慎重居士」や「行け行けドンドン」などさまざまなタイプが存在するはずで、これは過去のリスク評価の姿勢が積み重なってその人物の評価を作り上げたものなのです。
複雑なのは、リスクを評価する姿勢は必ずしも一人の人物の中で一定ではないことです。カバンの中身については極めてリスクを大きく取る私ですが、たとえば業務上の意思決定では相当リスクテイキングであるという評価を受けています。会社の金だから失敗しても大丈夫だと思っているのだろうと指摘されそうですが、むしろ逆で、自分のことならば慎重に意思決定をして結果的にコストが高くなっても(つまり損をしても)問題はないが、業務上の意思決定は収益を上げるために行うものだからです。つまり、目的によってリスク評価の姿勢は変わって当然ということです。
たかが持ち物の取捨選択ができないことを、あれこれと言い訳してきましたが、私たちは日常生活でも数多くの意思決定を、それとは意識せずに行っています。
それらは必ずしも金額や数量には換算できないものも多いのですが、冷静になって考えると10円安い野菜を買いに電車で隣町に行くような(当然損ですよね)決定を繰り返しているものです。自分がどんな根拠でその決定をしたのか、それは正しかったのか、ときおり見直してみることは、試行訓練として有効ではないかと思います。
さて、このエッセイを書くのに費やした時間と、その効果は...?
<2003.8.19>
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