第3話 最近blogを読んでます(2003.8.19)
初めて「blog」なる言葉を目にしたのは、どこかの日記サイトだったかと思います。
それまでblogサイトを見たことがなかったこともあって、解説を読んでも一体どんなものを指しているのかがどうも理解できませんでした。ただ漠然と、読者が掲示板のようにコメントをつけられる、日記サイトのようなもの、といったイメージでした。
私は元来、日記サイトなるものにかなり懐疑的なほうです。もちろん、個体差がかなり大きいのですが、今日は何を食べたとか、電車の中でこんなことがあって腹が立ったとか、日常のどうでも良い事柄をただ書き連ねるという形態は、読む側にとっても確かに暇つぶしにはなりますが、ただそれだけ。暇をつぶすなら他にも楽しいことや有意義なことはいくらでもあります。
日本には「徒然草」や「土佐日記」などの日記文学の伝統があること、良くできた文章は繰り返し読むに足る作品になることは十分承知しています。しかし、WEBで目に触れる日記の多くは、かなりの人気を集めているものも含め、ただダラダラと日常の出来事や感想を書き連ねているだけで、とても暇つぶし以上の用途に足るものとは思えません。
そんな日記に、コメントがつけられるからといってまともなサイトができるはずもない。blogに対する私の最初のイメージは、そんなところでした。
基本的には、芸も主張も文章の美しさもない、ただの日記をWEBで公開するという行為に対しての私の評価は、今も変わっていません。日記のメリットといえば、必ず毎日更新できるということくらいしか思いつかないのです。時折、日記サイトの隆盛について「一般人が必ず更新できるコンテンツといえば、日記くらいのもの」と冷ややかに評価する記載を見かけますが、私もおおむね同意見です。
それでも、最近はblogサイトを読むことがかなり多くなってきました。その理由は、PDAなどの情報を扱うサイト運営者の多くが、blogという形態を選択し始めたということによるものです。
前のエッセイの中で、私はユーザーコミュニティの活発さがPalmの魅力のひとつだと書きました。その事情は、他のPDAでも同様で、私がいま片時も離さないZaurusに関しても、活発なユーザーコミュニティが存在しています(念のため付け加えておくと、コミュニティといっても別に強固な団体などは存在せず、個人のゆるやかなつながり、WEBサイトやユーザー会等の個人の活動の総体がこのコミュニティの実態です)。このコミュニティの中で、読んでいておもしろいサイトを残していったところ、そのいくつかがblogであったというわけです。
私が理解している範囲でのblogの特徴は、日々の日記やひとまとまりの文章といった、個々のコンテンツへの読者からのコメント付加機能にあります(もっともこれはサーバ側のソフトウェアの機能であって、blogとはなにか? という観点から厳密に考察した結果ではありませんが)。そしてその内容面では、WEBサイトからページの作り手が選び取った情報へのリンクを示し、コメントやを付け加える「情報の選択と批評」が特徴と思われます。そして、私は後者に、より大きな魅力と可能性を感じています。
まず、コメント付加機能についてですが、それまでの、独立に掲示板やゲストブックなどが用意され、作者によるコンテンツと読者とのコミュニケーションスペースが分離されていたWEBサイトとは一線を画すもので、コミュニケーションツールとしての魅力は私にも理解できます。
とはいえ、私がいま読んでいるblogの範囲では、これは必ずしも活きた特徴にはなっていません。なにせ、各コンテンツにつけられたコメントが実につまらないのです。むしろ、WEBサイトのオーナーとして文章を書き、発表する立場で作られたコンテンツと、単なる匿名の一読者として書かれたコメントとの悲しいほどの質の差が際立つ結果を招いているように思えます(両者が高いレベルで均衡しているサイトには私はまだ出会っていませんし、低いレベルで同質化が進んだサイトはそもそもつまらないので二度と訪問しません。結果として、このように評価できるサイトが目立つ、ということです)。
結局は、サイトオーナーの書き手としての力によってサイトの質が決まる、という状況には変わりなく、blogという形態そのものがサイトの魅力につながってはいません。私が最近読んでいるサイトは、あくまでもオーナー自身による言葉に魅力があるのであって、付加されたコメントはほとんど読んでいません。
WEBサイトを運営する以上、来訪したゲストの感想が励みになることはまぎれもない事実です。内容をほめていただいたり共感していただく以上に、読んでくださる方々の存在を実感できることが、サイト運営の熱源となります。
ただ、私自身の読者としての経験からも、作者にメールを送る、あるいは掲示板やゲストブックに発言する、という行動を取るには、それなりの動機が必要です。共感にせよ反感にせよ、かなり強い感情が起こらなければ踏み出せない方が多いでしょうし、作者と読者との間にはそれだけ高い垣根が存在します。blogは、この垣根を大幅に低める試みであり、ここから新たなコミュニケーションの形が立ち現れてくる可能性は十分にあります。
その一方で、現在のWEBのフォームへの入力はまとまった文章の作成には適さないものですし、ましてや携帯電話からのコメントではしっかりと意味の通った文章など望むべくもありません。大げさな言い方ですが、WEBのフォームや携帯電話といった、文章作成のインターフェイスの未熟さは私たちのコミュニケーション能力を危機に陥れているようにも思えます。
たしかに、コミュニケーションの巧拙は文章力だけによって決まるものではありません。しかし、会話にせよ文章にせよ、自分自身の意見なり主張を言語にして伝えるのがコミュニケーションである以上、文章の構成力は極めて重要な要素である事は間違いありません。本人がいくら「わかっている」し「しっかり考えている」つもりでも、それを他者に伝わる言葉に置き換えられないのでは、他者は彼や彼女を「わかっていない」し「考えてもいない」人と峻別するすべはありません。
現在の小中学校の国語授業風景を私は知りませんし、掲示板やWEBサイトなどに書かれた文章からの判断は危険ではありますが、あるテーマについて文章を作成し推敲を重ねる訓練をする機会は、大幅に減少しているのではないかと思われます。
blogという形態は、比較的短い文章でも意見や主張を言い表す能力には圧倒的な個人差があることを、極めて明白に示しているように私には感じられます。このままでは、ごく少数の「きちんとした文章が書ける」人々と、短絡的なコメントをつけることしかできない人々への二極文化がますます進行し、同時に両者がいたるところで同居する状況がさらに広がるでしょう。これは、情報のS/N比の高い場が減少し、私達は常にノイズを振り分けながら情報と対峙することを強いられるであろう事を示します。すなわち、これからWEBというメディアとつきあっていく上で、情報を選択し批評する能力は、ますます重要になると考えることができます。
私が読んでいておもしろいと感じるblogサイトの多くが、この「情報の選択と批評」において優れた視点をもっています。サイトの作成者の情報の目利き能力が高いと言い換えても良い。
本来、この目利きの結果こそが多くのサイトにある「リンク集」であったはずですが、相当質の高いサイトであっても(そしてそのサイト運営者が自己のリンク集の質を誇っている場合でさえ)、実際には石に偏った玉石混淆という実態は否定できません。
blogサイトで日々示される個別の情報へのリンクは、固定的なリンク集ページとは違い、その時々の活きた情報へのガイドとなるものです。目利き機能の有無こそが、日々更新される記事が、単に個人の日常を書き連ねたり、愚痴を吐き捨てる場に陥る事なく、読み手にとって魅力ある場になり得るかどうかの要件のひとつであるように、私には思えます。
以上、書き連ねてきましたが、もしかするとblogの全体像や本質を把握しないままに、いくつかのサイトを見ただけによる皮相的な論評に過ぎないかもしれません。また、単純に「他人の日常を見るのはおもしろい」という欲求を否定する気もありません。
しかし、blogの流行は、WEBにおいて目利きの必要性が増大していることの現れであり、従来から各種コミュニティの中心人物たちが果たしてきた役割の新しい形態であるという仮説には、多少の自信もあります。信頼できる目利きを、一人でも多く見つけることは、ますます膨れ上がるWEBの海で溺れないための大切なテクニックとなっていくでしょう。
<2003.8.19>
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