第20話 フェミニストは、シンデレラ・ストーリーを否定するか?(2003.6.15)
私は先日、一冊の本を読み終えました。タイトルは「お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門」、著者は若桑みどりという大学の先生。内容はディズニーのアニメを見せて感想を書かせたり討議をさせるという、少し変わった形式で行われている「ジェンダー文化論」なる講義での、女子学生たちの感想と若桑氏のコメントを、ジェンダーに関する若桑氏のエッセイでサンドイッチしたもの、といったところ。これらのアニメーションがジェンダー学の講義でどのように扱われているのか興味を引かれたのと、出張の移動に向けて読む本がなかったので、あまり中身を調べずに買ったものです。
念のためかいておくと、ジェンダーとは生物的な男女の区別ではなく、社会的・文化的に形成され私達の思考や言動に影響を与えている性差のこと。簡単な例では、「女の子なんだからきれいにしなさい」「男だろう、泣くんじゃない」という、性による期待される役割や言動の違いに表れています。一般に男性に対押して女性が従属的・補助的な立場におかれてきた社会を形作る、意識や規範、あるいは価値観や行動様式など、極めて広い範囲をもつ考え方と理解しています。
著者による男女共同参画社会への意志や期待、あるいはそのための主張は極めてまっとうなもので、基本的には賛同できます。たとえば仕事の能力においては性差よりも個人差が圧倒的に大きいことなど、数年働いてみれば教わらなくても理解できることです。したがって、幼少期からの刷り込みも含めた、性差を能力差や社会的役割の差と結び付けるさまざまな環境要因を変えていくことが必要だし、そのためには、まず一人一人の大人が自分がもつ性差別と向き合うことが重要です。
著者の目指すものには共感しつつも、私はこの本自体には極めてがっかりしています。
なぜか。単純化してしまうと、この著者は子供(講義の相手である女子学生です。子供といって悪ければ若者)にすりより、彼女らをおだて持ち上げ、同時に男性優位の社会へのステレオタイプな見方を植え付け憎しみをかき立てるることで、学生たちを自説に引き入れようとしているからです。
この本の半分は、「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」の3つのアニメ作品に対する、著者の講義を選択した学生の感想文で占められています(瑣末なことですが、著者は最後の作品を終始「眠り姫」と記しています。講義のために作品を借りているのですから、著作者が決めた邦題くらいは尊重してはいかがでしょうか)。引用が全文なのか一部なのかがはっきりしませんが、学生たちが書いたものは感想文というよりも数行の雑感といった程度のもので、そのほとんどが極めて表層的な発言に終始しています(ただし、いくつかはっとさせられる指摘を含んでいることも事実で、すべてがくずというわけではありません)。著者は3年生になるとジェンダー学を学んだ成果で、的確なコメントが増えてくるとご満悦ですが、私にはせいぜい教官の気に入るコメントをさらりと書いてさっさと単位をもらってしまおう、といった程度の内容にしか見えません。大学生のものとは思えないほど稚拙で粗雑な思考によるつまらぬ感想の数々は、学生たちの作文能力の低さか、あるいは講義への取り組み姿勢の低さのどちらかの表れと解釈せざるを得ないものばかりです。こうした愚にもつかない子供の感想文を出版してしまおうと思いつく時点で、既に著者の価値観は私とは大きく掛け離れています。
学生の手抜き感想文を持ち上げる著者の論理にもすさまじいものがあります。たとえば、「眠れる森の美女」に対して次のような驚嘆すべきコメントを書いた学生がいます。
「肌が白く金髪という人種的特徴が不可解。
冒頭に国の名前を書くべきだ。わたしたちは黄色人種なのだから。」(147ページより)
G.Aなるイニシャルのこの学生、よほど書く事がなかったのでしょうが、1954年にアメリカと西ヨーロッパを主たる市場として作られた商業アニメーション作品に向かって、一体何がいいたいのでしょうか? この思考回路の方がはるかに不可解です。まあ、何か書けといわれてなんとなく思いつきを書き散らしたのでしょうが、そこらの掲示板に書いたって相手にされないような貧しい文章です。
しかしこの著者は、この感想を引いた後でこういい放ちます。
「ディズニー・アニメのヒロインがみな『白人』であること、金髪であることが『美の典型』となって女性たちを呪縛していることは周知の事実」(148ページより)
この決めつけの非論理的なことといったら、とても大学で教鞭と執る人のものとは思えません。
再度いいましょう、これらの作品は1930年〜50年代のアメリカの子供を喜ばせるために作られた商業作品なのです。そのヒロインがアジア人である必要がどこにあるのでしょうか。もちろん、さまざまな評伝からウォルト・ディズニーが当時のアメリカ白人が共通してもっていた差別感覚から自由な人ではなかったことを私は知っていますし、人気アトラクション「ジャングル・クルーズ」からはジャングルの商人サムをいいかげんに退場させるべきだとも思います。しかし、ディズニー作品の背景に白人優越主義が透けて見えるからといって、「ディズニーのアニメが女性たちを呪縛している」などという、粗雑な論理が成り立つはずがありません。著者はなぜこんな粗雑で飛躍した、憎しみと差別感情に満ちた論理を展開しているのでしょうか? 私は、ある意図をもってあえてやっているのだ、と考えます。
蛇足ながら書いておくと、著者がいいたいのはディズニーのアニメーションに代表される、子供向けとされる作品やメディアが、画一的な美の基準と、それに近づくことが男性に気に入られ、幸せになる唯一の道だという思考を子供たちに刷り込んでしまう危険性を警告であることくらいは読み取れます。しかし、引用しG.Aのような馬鹿げた発言をする学生に同じレトリックが通用しているのか、私には大いに疑問です。他の感想はいちいち引用しませんが、一様に男性支配に対する憎しみに満ち満ちたものが並び、著者はいちいちそれらをおおげさに褒めたたえています。そこに書かれた結婚生活観や職場観の画一的なことといったら、お伽話の類似性・画一性とそっくりです。このような見方・評価を一体だれが「刷り込んだ」のか、考えるまでもなく明らかです。そう、この講義は一種の「逆洗脳」のようなものです。価値観というのは自由・個別なもの、結婚して子供を育てる生活を”本当に”望んでいる学生は、この講義中、さぞかし居心地悪く、必要もない罪悪感にさいなまれることでしょう(幸い、この講義は選択制だそうですので、選ばなければ良いのかも知れませんが)。
上述の通り、私は男女共同参画社会の推進に全面的に賛成ですし、女性だから補助的な仕事で十分だとか、男だからしっかりしなければならないといった価値観はもっていません。
しかしながら、根強い性差別意識と戦うための戦術として、未熟な子供の論理を褒めたたえ(小中学生ならまだしも、彼女らは大学という高等教育の場に自らの意志で参加したのですから、甘やかす必要など皆無のはずです)、あるいは「女だから」「女のくせに」といっただれにでもある差別体験への怒りを巧みに引き出しながら、学生たちに逆刷り込みを行う著者の行動は、間違っているといわざるを得ません。粗雑な思考と粗雑な論理からは、粗雑な行動しか生まないと私は信じます。例えは悪いですが、世界各地で繰り広げられる憎しみの応酬による紛争は、こうした粗雑な論理に基づいて行われています。
また、未熟を指摘しないのは、相手と正面から向き合う気がない者の行動です。本の中で著者は、学校の教師が女子生徒の私語を注意しない、つまり教師たちは女性をまじめに教育する気がないのだ、という、これまた事実の裏付けのない、単なる印象に基づく論を展開しています(教師が女子生徒の私語には寛容であるという客観的な証明ができるなら話は別です)。同じ非難を自分自身に向ける勇気をおもちになるべきでしょう。
ディズニーの作品に限らず、映画や文学などが作られた時代背景や、そこに影を落としている価値観に目を向けることは、作品鑑賞の上でも、あるいは社会の問題と向き合って行く上でも重要なことです。しかし、ある価値観に対する批判を、それと対立する別の価値観の刷り込みのために行うことが学問であるとは、私には到底思えないのです。勢い込んでアニメーション作品の擁護をする意図などありませんが、私達が好む作品がこんなふうに利用されてもいるのだという事実は、ジェンダーはこの社会にしっかりと根付いたままなのだということをより強く感じさせるものであったことは確かです。
<2003.6.15>
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